アルバイト時代から正社員時代。
法人設立そして譲渡後、現在はフリー
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→初めてのアルバイトは、上野百貨店
はじめてのアルバイトは、アルバイトニュースで見つけた上野百貨店(2000年12月倒産、本社宇都宮市)のベルト販売店の店員でした。なんとか日本語を話すことができるようになりはじめた頃なので、話すのが楽しくてたまりませんでした。この上野百貨店を訪れるお客さんは、東京以外に暮らす人たちばかりだと店オーナーに聞かされ、外国人なので店に来るお客さんに注目されていたような気がしていました。その分、売り上げに貢献したのだと信じています。初のアルバイトで得た最初のお給料は、小田急線の経堂駅にある質屋さんで質流れのステレオプレイヤーを買いました。4万円弱だったと思います。1978年頃の話です。
2000年の1月ころ、22年ぶりに上記ベルト店を訪問したところ、あったあった。お店はちゃんとありましたが、残念ながらオーナーの顔を覚えていなく、このときは20歳前後の女性がひとりしかいないかったせいか多分アルバイトだろうと、とくに声をかけることはしませんでした。その後、残念ながら年末に上野百貨店は倒産してしまいました。
→初めてのウェイター・皿洗いは、ロイヤルホスト馬事公苑店
はじめてウェイターをしたのは、世田谷通りのロイヤルホスト馬事公苑店でした。ここではトータルで2年近く働いていました。最初は、皿洗いから初めて、半年くらいでウェイター兼皿洗いをしていました。フォークやスプーンの類をひっくるめて、「シルバー」とこの業界では呼ぶことをここで知りました。1978年~79年頃の話です。
→健康食品店(ジャパンヘルス)(千歳船橋)
ここは、一般来客用の店舗で健康食品の販売をして、裏にまわると倉庫+食品の在庫があり、出勤すると前日に届いている注文書の山から、10件~20件の伝票を渡されて、各自が倉庫から伝票別に食品を取り出して箱詰めをして、出荷トラックに積み込む作業をしていた。毎日毎日たくさんの注文があって、いくら処理しても終わらない。とにかく終わらない。。健康ではない人がこんなにもたくさんいるものだと、その驚きを当時の日記にも書きました。1980年前半の話です。
→初めてのスーパーストアは、サミットストア三軒茶屋店
はじめてスーパーストアでのアルバイトは、サミットストアでした。ここでは、生の肉をパックしたり、生鮮食品を店頭に並べたり、一般の商品の在庫を調べたり、不足分を仕入れ先へ注文をしたりすることが仕事でした。POPの書き方や、商品の陳列の仕方などを習いました。生肉を素手でさわると手が荒れることも知りました。なつかしい。。1980年後半頃の話です。
→初めての喫茶店は、「珈琲野郎」珈琲専門店(目黒駅近く)
はじめての喫茶店のアルバイトは、珈琲専門店で、ここではウェイターは、一切やらせてもらえず、珈琲を入れたり、カップを洗ったりの客先が一望できるカウンターの奥での仕事でした。高価なカップ類をゆっくりと慎重に洗うと、「遅い」としかられるし、ロイヤルホストのように洗浄マシンなどはなく、すべて手洗いでした。叱る相手は、オーナーや管理者からではなく、自分よりも先に勤めていた先輩アルバイトの人たちなので、これは長く勤めるとそうした順番が自分にも廻って来るものだと思いました。辞めるまでに100種類近くの珈琲を飲むことができました。1981年頃の話です。
38年前に喫茶店「珈琲野郎」として開業、25年間営業した後に経営が変わり「カフェ・アイン」としてオープン。2011年4月1日に「珈琲屋ROW(ロウ)」となり現在は閉店。「珈琲野郎」時代から店長として店を切り盛りしていたのは杉本喜章さん。(目黒の喫茶店「カフェ・アイン」が「珈琲屋ROW」へ新装-経営交代で)
→毎月毎月が初めて仕事の1981年!?
アルバイトにもだんだんと慣れて来たせいか、この1981年は、ほぼ毎月のようにアルバイト先を変えていました。ケンタッキーフライドチキン、スズキ自動車販売(納車前の車両点検と、下取り車の運搬)~ネガ現像所(深夜のネガ現像)~職業斡旋の路上ハガキ配布(職安周辺で配布)~テレビブラウン管電線張りなどなど、思い出すことができるたびに書き加えようとおもいます。。
→最後の時給制アルバイトは、渋谷パルコのエレベータボーイ
1982年。渋谷パルコパート3がオープンする際にパルコでエレベータボーイの募集があり、自分が西武グループにはじめて採用された在日外国人のはずです。ここが最後のアルバイト先で、もっとも長く勤めた職場でもあり勤めた期間は18ヶ月間でした。(渋谷パルコのエレベータボーイ時代の写真を見る)(該当するブログ記事へリンク)
1997年11月1日に共通の知り合いがある方をスクムウィットへ連れて食事に来られたことから、この方が実は、同時期に渋谷パルコ1の2階にある喫茶店「a・i・u・e・o」でアルバイトをしていたことがわかり意気投合!彼はいま「タイデパート」を開設運営中。
正社員時代
→プラント設計会社(東京池袋)
勤務期間は、1年強。タイへ進出しているこの企業のタイ事務所設立の手伝いや、日本人とタイ人とのコミュニケーションがスムースに進むようにする役割。労務管理のベース作りのような仕事をしていました。
→工業用精密ゴム製品の開発、製造、委託製造の管理及び販売会社(埼玉県)
勤務期間は、1年。一部の製品を現地(タイ)で製造することを目標にタイでの基盤作りから、実際に製品を作って出荷するまでの行程に携わる。
→駐日タイ王国横浜名誉総領事館勤務
1990年~1994年、駐日タイ王国横浜名誉総領事館・総領事補佐として、タイ国入国に関する査証の発行、在日タイ人の相談窓口。領事館の新規設立から携わる。
法人設立時代
平成6年8月・株式会社タイファミリー設立
1994年8月・日本法人を設立。港区本社:資本金1000万円。個人で飲食店を開業する際に店舗を借りる必要があり、個人でしかも外国人であるよりは、日本法人を設立して、法人で借りることのほうがスムースだとわかり、実際にもその通りだった。
平成6年11月・タイレストラン・スクムウィット開業
1994年11月。神谷町~広尾~南青山の順で店舗を探して、最終的には南青山でタイレストランを開店。飲食店経営に関するノウハウなどは、持ち合わせていなく、学生時代に世田谷通りのロイヤルホスト(馬事公苑店)でのアルバイト経験だけだったので、毎日が勉強だった。店舗経営は7年半続いたが、スクムウィットは残念ながら、2002年4月末をもって閉業(閉店)し、ホームページはトップページのみ残してあります。
平成7年1月・通訳翻訳・人材派遣会社個人>法人へ切り替え
1995年1月から、19歳ころから通訳・翻訳会社あるいは、人材派遣会社に個人として仕事を受けていた47社へ書面で、株式会社タイファミリーでの取引をお願いした。約1ヶ月間のうちにほぼ全社から回答を得たものの、うち2社は、個人登録のままで残りは法人取引に切り替えてくれた。ただ、現場の担当者とのやりとりで完全に法人へ切り替え終わるまでには、10ヶ月くらいを要した。平成13年中にすべての業務は、有限会社ワイアンドエムエムへ切り替え、株式会社タイファミリーは、タイレストラン・スクムウィット運営業務に特化。
平成9年5月・国際電信電話株式会社(現在・KDDI)との取引開始。
1997年5月ころから、在日タイ人向けの印刷物(タイ語)作成の仕事を獲得。初の仕事が、スーパーワールドカード(コンビニのレジで売られている国際電話プリペードカード)の使い方チラシ。(表・裏)続けて、スーパーワールドカードホルダー(表・裏)をいずれもタイ人デザイナーがタイ人向けにデザインさせるため、バンコクへ発注して制作。そして、「001真夏の夜の夢」/スーパーワールドカードサンキューキャンペーン/新割引ヨルドニッチを制作。Happy Club チラシ。注:キャンペーン名称は、当時のまま。平成10年03月1日~「HAPPY CLUB 通信」取材・執筆・編集/タイ語編/創刊号より第4号迄担当。現在、同通信は発行されておらず。
平成12年2月・KDD株式会社とNEWEB代理店契約。
平成12年8月・第二電電株式会社とDIONダイヤルアップ申込取次業務契約。
平成13年5月・有限会社ワイアンドエムエム設立~譲渡~フリーとなる
2001年5月・2社目の日本法人を設立。港区本社:資本金300万円。個人や株式会社タイファミリーで請け負っていた翻訳業務、KDDI株式会社特約店、DION取次店業務を引き継ぐ法人。au携帯電話・DDIポケット販売取次業務。【DDIポケット(本社:東京都港区)は、2005年2月1日より、社名(商号)を「株式会社ウィルコム」(英文名:WILLCOM,Inc.)に変更となります。】
2002年5月に有限会社ワイアンドエムエムを親族へ譲渡し、完全なフリーとなる。
2005年2月現在、au携帯電話およびWillcom(旧DDIポケット)取次店販売継続中。取次店業務契約先は、株式会社KDDIネットワーク&ソリューションズ。
au携帯電話およびWillcom(旧DDIポケット)に関する取次店業務を履行するにあたり、株式会社KDDIネットワーク&ソリューションズと「顧客情報の保護・秘密保持に関する覚書」を平成17年4月末に締結しています。株式会社KDDIネットワーク&ソリューションズとの契約は2007年11月末までで終了。
2007年12月1日より兼松コミュニケーションズとau携帯電話およびWillcom(旧DDIポケット)に関する販売取次店業務委託契約を交わしました。au WILLCOMともにすべての機種の取り扱いを取り扱うことができるようになりました。業務範囲は、MNPを含む新規契約、機種変更契約、 オプション品の販売となります。
母国にロングスティ時代
2010年3月より母国、タイ国のバンコクに拠点(スクムウィット39)を設けて、活動開始・・「母国で長期滞在」です。母国、タイでの活動記録を母国にロングスティ のブログカテゴリへ移動してみてみる。
2011年8月末、日本アイアール株式会社の監査役(5年間従事)を辞任。
2012年5月、スクムウィット39(通り名)で借りていたコンドミニアムを引っ越し、さらに母国にロングスティを続行、東京暮らしが多めになる。
2013年3月より12月まで、Matching & Relationship Consulting Co.,Ltd.のコンサルタントの一員でした。(タイ国)
2013年5月、母国でロングスティ(タイ・中部編)で暮らしていたアパートを引っ越す。バンコクで借りていたコンドミニアムと比較すると家賃は四分の一、ただし、バンコクへ通うことで掛かるガソリン代を考えると結果的にバンコクで暮らすことと同じくらいのコストになり、移動することに費やされる時間分は損することになる。いろいろな環境への移動を重ねていけば母国にも慣れていくでしょう。という挑戦でもある。
2013年6月、タイ国:株式会社 コンシェルジェ (The Concierge Co., Ltd.) 故・大川さんの会社を受け継いで彼の同僚になりました。
2013年10月より2015年10月まで、株式会社ランドハウジングの顧問に就任。(タイ国のお客様担当スタッフの一員でした。)
2014年7月、母国でロングスティ(タイ・中部編/二箇所目)で暮らしていたアパートを引き払いバンコクへ引っ越す。人生初の超高層コンドミニアムだ。
2014年12月現在、バンコクのトンブリーエリアにある超高層なコンドミニアムに暮らす。(タイ暮らしの間)
2015年9月9日より2016年9月8日まで、Concierge Japan Co.,LTD.(タイ国)。本社はトンブリー。
2015年11月、母国でロングスティ(タイ・バンコク編)で超高層コンドミニアムにも慣れたので同じバンコクトンブリーエリアのさらに超超コンドミニアムへ引っ越す。
2016年11月、超超コンドミニアムから、9階建てのマンション(バンコクの中心)引っ越す。1年に一回の引越が定番となる。会社に属さずに完全なフリーランスとなります。
-《最終更新日時 2016/12/18》-